ルーセル共和国の、長い冬は去り、雪と泥に塗れていた河川敷では、緑が靡(なび)いていた。 木々は新緑を芽吹かせ、ロゼットを作り越冬していた草は、そのつぼみを膨らませていた。 風花(かざはな)は去り、久しい。 首都ルクスルの外れ、小高い丘。 シロツメクサは、未だ咲いていない。 クローバーが一面に敷き詰められているそこは、墓所。 その白い石の柱――墓標の前には、既に花が供えられていた。 暗い色の付いたゴーグルの男は、その様子にホッとし、自分も携えていた花を置いた。 二つの花束は、どちらも同じ、深紅の薔薇だった。 東や北で文化の違いがあるかもしれないが、その花は一般的に、墓所には凡(おおよ)そ相応しくない花だ。 共和国では愛を伝えるのに用いられるのが一般的で、花屋のオバサンも何か勘違いしている様子でニコニコしていた。 その花は、ただ単に、そこで眠る人が好きだった花だ。 当たり障りない、気持ちだけの花を貰うよりも、好きだった花を貰った方が、死者も喜びそうな気がする。 ただそれだけで、彼らは毎年決まってその花を贈る事にしていた。 どちらから言い出した訳でもない。気付いたら、そうなっていた。 彼は墓前で瞑目し、背筋を伸ばして、空を仰いだ。 青空が、光が、色の付いたガラスを通り、更には目蓋を閉じた瞳にまで浸みた。 その姿勢は、ホシガミ信仰スタイルの、死者に捧ぐ黙祷。 今でこそウィルと呼び、魔術や機械を稼働させるエネルギーとして使われるあの光を、昔の人々は死者の魂だと呼んだ事に因(ちな)む姿勢だ。 祈り終え、目を開けて、彼は気付く。 あらかじめ供えられていた薔薇の花束に結ばれた、深紅のバンダナ。 暗い色のゴーグルの男――オルガ=ステヴァンは、目を隠すゴーグルを上げて、花束に結ばれていたバンダナを解き、胸元で握りしめた。 「……姉さん」 頬を、涙の一(ひと)滴(しずく)が伝った。 ● ○ ルクスル駅から汽車に乗り込み二日。 東部、貿易都市ビルフ。 そこは東方国家と隣接する三つの橋の一つを持ち、三つの貿易都市の中で二番目に栄える、割かし治安も安定している町だ。 それでも、ひょっとしたら首都であるルクスルよりも栄えているかもしれないと、ガローは思った。 ビルフの外れにある森の中。 国が所有する森の中、開けた場所にひっそりと建つ、小屋。 名目としては自然保護と生態系観察、密猟者対策の為の駐屯基地――であるが、この森に密猟してまで手に入れる程の動物も植物もおらず、ビルフの住民もその存在を知らない。 そんな小屋の傍には池があって、そこには釣竿を持つ白い少年が座り込んでいた。 差し込む木漏れ日に、水面がキラキラ光る。 「ただいまー、一人で寂しくなかったかー?」 声を掛けると、白い犬族――否、巨狼族の少年・シロは、振り向き、釣り針を引き上げ、尻尾を左右にゆっさゆっさと振り、ガローの元へ駆け寄ってきた。 「おかえり、ガロー! ……あれ? いつも頭にしてる赤いのは?」 ガローの顔を見ての、第一声はそれだった。 「ん、あぁ。もう、俺には必要ねーかな、って思ってな。持ち主に返してきた」 ルクスルでの一件から三ヵ月と少し。シロと出会って、半年くらいが経過した。 あの直後、ガローはシロから巨狼のアジトの大まかな位地を聞き出し、ビルフの隠れ家へと引っ越した。 旅費はロウ持ちで。 事の発端となった情報のリークは、果たしてジョセフではなかった。 ジョセフに殺人を依頼していた顧客の一人が、どうやら巨狼と繋がりを持っていたようで、そこからガローの情報が漏れていた。 突き止めたのは弟子だと、ジョセフは誇らしげに言っていた。 シロが攫(さら)われてからの半月以上の間、ジョセフはエリックを手足にして、その犯人を追っていた。 その件もあって、ガローはビルフへの引っ越しを決めた。 ガロー=ステヴァンを殺した人物は未(ま)だ解らない。 そして、復讐心も未(ま)だ消えない。 ジョセフから、ビルフに住む情報屋を紹介されて、ガローはここへ来てからも暗殺の仕事を請け負っている。 そんな毎日の中、四日前にガローはルクスルへ。 友の命日だと言って、シロも行きたいとせがんだのをどうにか説き伏せて、一人で行ってきた。 ルクスルは危険だからとか何とか、それらしい事を言ったが、本当の所は、墓前で泣く姿をシロに見せたくないだけだった。 その日は、国中の至る町で祭が繰り広げられた。 ロウ=ブラック元首着任六年の祝賀と、共和国の平和と、ますますの発展を願ってのドンチャン騒ぎ。 シロも、こっそりビルフの町へ繰り出し、ガローから貰ったお金で祭気分を楽しんだ。 まだ釣銭の事まで頭が回らないけれど、買い物の仕方は覚えた。 その一方でガローは、墓参りのついでに、久々にジョセフやロウに会うだけで、とんぼ返りした。 オルガには、会えなかった。 毎年この日だけは、彼の顔を見れなかった。 たった一人の肉親である、姉の命を失ったのだ。顔なんて合わせられるはずがない。 どの面下げて会えばいいのか解りやしない。 自分の所為で、と言ったらぶん殴られてしまったけれど。それでも、ガローは、未(いま)だに自分を許せていなかった。 後は、ちらりと、警務隊候補生となった、かつて地下に住んでいた子供達の顔だけ見て、帰って来た。 みんな、元気そうだった。 ガローの最後の一言は、あの後すぐ、例の少女に伝えた。 ただ一言、『そう』とだけ言って、ミーは姿を消した。二人の間で一体何があったのかは分からない。もしかしたら、伝えない方が良かったのかもしれない。 一方で共和国と、旧帝国の小競り合いは、続いている。 以前ほどではないが、確実に死者は出ている。 「おいらの言葉……誰にも伝わらなかったのかなぁ」 週に一度はシロが言う。 記憶の方は、相変わらず曖昧(あいまい)で、語彙(ごい)も毎日詰め込んで、どうにか日常会話ならスムーズに話せるようになった。 記憶を失くす寸前の記憶は戻ったが、噛ませ犬を殺させられていた頃の記憶や、兄弟同士で殺し合わせられた記憶は、未だ戻らないらしい。 この先戻るかどうかも分からない。 ひょっとすると、取り戻してしまったら、シロはシロでなくなってしまうのではないかと、ガローは思っている。 でも、いつかは、立ち向かわなければならない。逃げ続ける訳にはいかない記憶だ。 解っていても、今のままでいて欲しいと願ってしまうガローがいた。 いつもは、適当に同意して、茶化して終わらせていたが、今日は真面目に取り合う事にした。 「そんな事ねーよ」 シロの言葉は、無駄なんかじゃなかった。 ガローの返事に、シロはきょとんとした。 「あれからな、狼狩りと巨狼の小競り合いは確実に減りつつあるんだ」 単に巨狼の総数が減っているからなのか、狼狩りが巨狼に恐怖を成したのかは定かでないが。 久々に首都へ赴き、ジョセフから聞いた話だ。間違いない情報のはず。 けれど、シロは苦々しく笑って見せた。 「そうかなぁ」 「まぁ、戦いがあるのは事実だよ。 けど、そこはさ、子供は子供、大人は大人で大変。って話で、まして国と国、組織や種族となれば話はややこしい事この上ないってもんさ。 お前のやった事は、決して無駄なんかじゃない。 いつか、きっと、報われるよ」 笑顔を向けて、そして、ガローはシロの頭を引っ掴んだ。 「でもなー」 笑顔のまま、力の限りでシロの頭を握りしめた。 「痛い! いたたたた! ガロー!?」 引っ越してきてからは何だかんだで忙しくて、きちんと話せなかった。 あれよあれよと三ヵ月だ。 それでも、これだけは言っておかなければと、ガローはシロの氷色の瞳を覗き込んだ。 「自分の命を取れ、なんて二度と言うな!」 うっ、と、シロは唇を尖らせた。 何か反論しようとしていたから、ガローは畳み掛けた。 「お前が死んだら、俺が悲しむ! だから、頼むから、もう、絶対あんな事言うな。 次言ったら泣くぞ!? 友達(ダチ)が死んだら……悲しいに決まってんだろ!」 シロは、何も言えない。 しゅんと、俯(うつむ)こうとして、がっちり頭を握りしめられていて、出来なくて、ガローの黒い瞳を諚(しか)と見て、シロは口を開いた。 「ごめんなさい」 「分かればよろしい」 それで、パッとガローは手を話した。 「一緒に海、見に行くんだろ?」 シロの目線に下げていた腰を上げ、ガローは彼に背を向けた。 いつか交わした約束に、小指が熱を持つ。 数え切れないくらい人を殺している自分が、何を言っているんだ。そう思う。 「うん!」 きっと、背後の白い巨狼の子供は笑顔でそう言った。 その子がそう言うならば、ガローは、その笑顔を守る為に、いつかきっと海を見に東の国へだって行くだとろう。 それでいい。 檻に入るのは、それからだっていいだろう。 結論付けても、けれど小指の熱は引かない。 シロツメクサの蕾が、脳裏に揺れる。 墓前に置いて来た、深紅のバンダナ。 右耳がピクリと動く。 左に付けてたゴムの耳は、もう無い。 多少の不便はあるが、大差はない。その耳で、聞いた声。 お前の作る飯は最高だ。 彼女は、そう言ってくれた。 丸太を組んで建てた小屋――ログハウスの中、ガローは食料庫を漁る。 ――ああ、すっかり、忘れていた。 『私は人を傷付ける技しか持ってないから、ガル、お前の事が羨ましいんだよ。 なぁ、この戦いが終わったら、私にも、教えてくれないか? 美味いメシの作り方。 私だけじゃない、ロウやジョセフ、あとオルガにも! 料理教室開こう! 美味いモン食って、皆で笑おうな! 約束だ!』 他愛の無い、口約束だった。 小指の微熱は治まらない。 なんて約束をしてしまったんだ。 果たせなかった。 けれど、彼女には、ミーと云う少女がいた。 それは決して、人を傷付ける技しかもっていない訳じゃ無かった事の証左。 言い訳だ。 料理教室も開けなかったし、調理のイロハも、味付けの基本も、何も教えられなかった。 教えられるばっかりだった。何も返してあげられなかった。 守られるばかりで、守れなかった。 一度は、力になれたけど、最後の最後で、守れなかった。守られた。 ならば、せめて。 せめて、最後の一言だけでも。 皆が笑顔になれるような最後に辿り着きたい。 たとえ、咲かない花だとしても、無駄な努力だとしても、精一杯の水を与えたい。光を浴びせたい。見届けたい。 必要最低限の物しかない、広い小屋。 四角いテーブル。椅子は四つ。 シロは、勝手に自分の位置と定めた椅子に座って、足をぶらぶらさせていた。 シロが、命を投げ出す必要なんかない。 ガローは、考えていた。 あれからずっと、考えていた。 さすがに四六時中は考えていなかったが、それなりに考えていた。 要は、巨狼族と、他の種が仲良く出来ればいいのだ。 で、どうしてそうできないのか考えた。 人々が巨狼と共存出来ない理由。 ガローが導いた答えは、彼らが強力過ぎるから。 あの星型のピアスで力を制御出来るらしいが、実際、シロは制御出来なかった。 あの穴は、もう塞がっている。 ピアスに妙な魔術が掛かっていた為に、治癒術での治療は出来なかったが、思ったより綺麗に塞がった。 ともあれ、強大過ぎる力が、巨狼の疎まれる最大の原因であろうとガローは考える。 例のピアスを改良して、巨狼がその力を完璧にコントロール出来るようになる。 それも一つの手かもしれないが、事はそれほどまでに単純なのだろうか? と云う疑問が残る。 それならば、ウィルを世界から失くしてしまえばいいのだろうか。 荒唐無稽な話だが、それがガローの思い付く限りで最も破天荒な解決策だった。 あの光が無くなっても、人は生きていける。 つい六年前まで、魔術なんて存在しなかったのだから。 しかし、そもそもウィルと呼ぶ空の光が有限な資源なのか、どこからともなく無限に湧き出る物なのかも、ガローにはよく分からない。 それは、お偉い学者さんに一任するしかない。 と、まぁ、大して賢くもないガローが考えた所で余り意味は無い。 それどころか、ふと、実は、この問題は余り深く考える事でもないのではないかと思う部分もあったりして。 帝国は、他者を寄せ付けず、皇帝は独裁していた。 それが、あの日、あの時、巨狼族次期皇帝が共存の道を示した時点で、実は―― 「あれ、食材足んねーなー」 新たなホームには、冷蔵庫がなく、生モノはその日の内に消費せざるを得なかった。 真理に触れ掛けた寸前で、ガローの意識は今晩の食事にシフトした。 「よーし、シロ、買い物行くか! 晩、何食いたい? リクエストあったら言えよー」 財布と買い物かごを持って、ガローは外出の準備をする。 それを見て、シロも準備を……する必要もなかった。 もう、寒くは無いし、そもそも東部は温暖だ。衣服の下には軽くて丈夫な素材で出来た鎖帷子を装備している。 軽装で、シロは戸口に立った。 「んっと……ガローの料理、何でもおいしいから、何でもいいよ!」 シロに嬉しい事を言われて、ガローは照れる。 本当に、小料理屋でも開けばいいのにとシロは思う。 「じゃー、今日はなんか変わった食材探して、変わった料理してみっか!」 「東の国の料理っておいしいんだって!」 「よーし! そんじゃ、東からの輸入品探して見るか!」 「うん!」 そして二人は手を取り、晩飯の買い出しへと出掛けて行った。 |