孤児院の西。そこには大湖が広がっていた。 高い日が照らす水面の白波がきらきらと輝いている。 辺りの土は白く、これもまた煌めいていた。 塩湖である。 畔には前情報に違わずいくつもの洞穴が口を開けていた。 「グレン殿の事、何か目印でも残してくれているはず。そう願おう」 ライオネルは投げやりに言い、一つ目の洞穴へ潜り込んだ。 その後をナシェル達が続く。 驚いた事に、一つ目から大アタリであった。 ただ、厳密に言えばそれは違う。 全部アタリだったのだ。 後からアロンが検証してみた所、特殊な魔力に反応して道が現れる仕掛けが施されていた、との事である。 そんな事とはつゆ知らず、4人は洞穴を進んだ。 いつかの海底洞窟を思わせるものであったが、あそことはまた随分雰囲気が違っていた。 流れる清浄な空気はナシェルの鼻を清々しい気分にしてくれる。 その空気はやけに澄んでおり、モンスターの気配は微塵も無かった。 先頭を進むナシェル。その後を付くライオネルの背をちらりと見て、ローズはティアの肩を叩いた。 「ティア、ちょっといい?」 歩幅をゆるめながら呟くローズ。 ティアは振り向くや、ん? と首を傾げた。 若干ナシェル達との距離が遠ざかる。ローズは彼女に耳打ちした。 「ティア、あんた、あいつにホレてんでしょ?」 「えっ!? な、何言ってんの?」 素っ頓狂な声が洞穴内を木霊する。前を行く男2人が振り向き「置いてくぞー」とか言ってる。 少女の様子にローズはフフと笑った。 「ごまかしても、見てたらすぐ分かったよ」 そう言って彼女はフーと小さな溜息を漏らす。 「あんたもそう言う性格だから、素直になれないのも分かるけど……いい加減気付きなよ」 少女は困惑する。 ローズは物憂げに花唇を綻ばせた。 「自分に正直にならないと、失った時に後悔するだけだよ」 遠い目にティアは彼女の昔を垣間見る。 「ローズ……昔に、何かあったの?」 少女の問いに彼女は一瞬驚いたような反応をするも、すぐに嘲笑を浮かべた。 「踊り子なんかやってるとね……あまりいい思い出は出来ないものなのよ」 2人は暗い道を進む。 「8年前」 ポツンと言うその脳裏にはあの日の思い出がまざまざと蘇っていた。 「私は駆け出しの踊り子だった」 しがない酒場で踊り跳ねる艶やかな肢体。食い入るように見る男共。その頬は紅潮していた。 18になるかどうかの未だ幼さ残る肉体は男達にとって宝石のようにも、取るに足りない糸屑のようにも見えていたろう。 アタシは来る日も来る日も踊り続けた。 ある日は泥酔した男に言いよられる事や、半ば強引に体を汚された事もあった。 日に日にアタシは身も心も荒んで行った。 親に売られ、奴隷商人に売られ、その先でもまた売られ。転売に転売を重ねて身につけた伎が私を生かしてた。 このまま時間が過ぎて行くと思っていた時、彼は私に話しかけて来た。 「あの……ここが終わったら、少し話しませんか?」 今でもよく覚えている。すごく綺麗な目をしていた。その目にアタシの姿は、汚れきった目はどう映っていたか、今はもう分からない。 あの人は、今まで私の体目当てに近付いてきた男とはどこか違っていた。 最初はそこに惹かれたのかもしれない。 彼の名前はジャミル。当時有名だったライアン商会の子息……私とは住む世界の違う人間だった。 「ねぇ、ローズ」 愛しい横顔。 「この泉はレナスの泉って言うんだよ」 らんらんと二つの瞳を輝かせるジャミル。 「恋人達はここで永遠の愛を誓うんだってさ」 気恥ずかしそうな声、調子。 思わず笑えて来た。 「僕は君の踊りを見るたびに、ここに来て1人で誓ってたんだ。今度は2人で誓わせて下さいって」 本当に笑ってしまう。不思議そうにアタシを見つめる彼。 「あれ、何で笑ってるの? なんか変な事言った?」 楽しかった。 楽しい日々が続いた。 ずっと続くと思っていた。 そんなある日。 「ローズ」 真面目な声、顔つき。 いつもと醸す雰囲気が違っていた。堅く刃を握る剣士のようですらあった。 「僕と結婚して欲しい」 アタシはそのプロポーズを受けた。 やっと幸せになれる……そう思っていた。 「でも、現実は甘くなかったわ」 薄暗い、どこから光が射しているのか見当もつかない洞窟を彼女らは進む。 ティアは息の詰まる思いであった。 「ジャミルの父は私との結婚に猛反対した。踊り子だと? そんな訳の分からん娘とは結婚なんぞさせられん、ってね」 「ひどい」 ローズの言葉に思わず漏らしてしまう本音。ティアは眉を顰めた。 「ジャミルは食い下がったわ。人から聞いた話だけどね。父さんは身分とか名誉で人を決めつけるのか、って」 切なそうにローズは微笑む。 「ジャミルには、父親に決められた許嫁がいた。口論の末、ジャミルはライアン家との縁を切ると口にした」 途端、彼女の表情に苦々しげなものが宿る。 「ジャミル!」 街外れの路に傷だらけで倒れる彼を見つけ、アタシは駆け寄った。 「ロ、ローズ」 声はかすれ、口元には血反吐。顔には青アザ、背に突き刺さった短刀。 「ジャミル、どうしたの? ひどい怪我!!」 その時のアタシの顔と来たら、ジャミルの怪我と同じくらい酷かったろう。 「父が、僕、達の結婚に……反対で、それで、僕を」 アタシが喋っちゃダメと言うのも聞かずに、喋り続け、挙句ジャミルはゲホッと血の塊を吐き出した。 「今お医者さんを」 医者へ走ろうとするアタシを彼は力無く引き留めた。 「ぼ、僕は、もう、ダメだよ……ローズ。おねが、い、だから……そばに」 彼女の白い肌をするりと滑り落ちる青い掌。それを彼女は地に落ちるよりも早く拾い自分の命を分け与えるかのようにひしと掴む。 「ジャミル、あぁ、ジャミル……どうして、どうして」 滴る涙。ただただアタシは声を掛ける事しかできなかった。 震える指先が涙を拭う。 ジャミルはふっとはにかんだ。 「さよなら、ローズ……楽しかっ 瞳が閉じる。頬に触れる指が、腕が、零れ落ちる。 全てが信じられなかった。自分が生きていることすら。 「ジャミル……?」 ジャミルは死んだ。 「目を開けて!」 否、 「ジャミル!?」 殺された。 大きく口が開かれる。否定の声が彼女の世界を覆った。 「彼は、殺された。父親に」 コツコツと岩に反響する足音。 もはやティアは何も言えなかった。 「ライアンは、ジャミルの父は、自らの体面を取り繕うために息子を殺した。その事実は商会の権力でもみ消された」 その言葉に口元を覆うティア。その瞳は憐みよりも驚きが大きく光っている。 「たとえ、ライアンを殺してもジャミルは帰らない。そんな事百も承知だった。だけど、アタシは決心したわ」 アタシが裁く! 修羅の形相で彼女は荒野を進む。 怒りに身をゆだね、アタシはそこを目指した。 道中のモンスターは皆灰にした。 それでも力は足りなかった。 仇を討つためにはもっと力が必要だった。誰にも負けない力が、どんな堅固な防壁をも突破できる程の力が必要だった。 ライアン商会のセキュリティは一筋縄じゃない。ましてライアンの身の回りには常にボディガードが付いている。 しかし、それはジャミルへの裏切り行為ではなかろうか。アタシは悩みに悩んだ。が、答えは思いのほか単純明快なものだった。 自分で暗殺術を身につければいい。 そこでアタシはある有名な暗殺者を訪ねる事にした。 そして辿り着いた廃屋。多々ある噂が本当だったのか、彼はそこに居た。 「あなたが、ラシード……さん?」 黒尽くめの男。普段からそんな恰好をしているのかなんて突っ込んでる余裕はどこにもなかった。 「そうだ」 淡々と彼は答える。冷やかな視線が突き刺さった。 「仕事の依頼をしたいんですが」 「期間と相手の名前を言え」 淡々と事務的に言う。アタシは戸惑いつつ、 「いえ、そうじゃなくて」 と、言われた方としては当然のように困惑する台詞を吐いた。もれなく目の前の暗殺者の目もそう言う雰囲気を帯びていた。 「アタシに暗殺術を教えて欲しいんです」 彼の視線がアタシのそれと交わった。 「なんだと?」 「彼は、アタシに興味を持ったようだったわ。そして、死ぬほどの訓練を受けた」 所詮は思い出話。今となっては笑いも込み上げてくるというものである。 「耐えただけの事はあったわ。晴れてアタシは暗殺術を身につけた」 人間その気になれば案外出来るものよ。とローズが漏らすのにティアは苦笑。 「ありがとうございました」 深々と頭を下げる。そこに降りかかってくる白刃。アタシはそれを指先で捉えた。 ラシードが冷たい笑みを浮かべる。 黒い布に覆われた口からフッと声が漏れる。 「気紛れだ。礼を言われる筋合いはない」 アタシは刃を制し、頭を上げた。 「もう会う事もないと思いますが……お元気で」 荷物を肩から下げ、会釈。 「元気で、か。暗殺者には縁の無いセリフだな」 ラシードは彼女の背を見送った。もはやそこに隙など微塵もない。そう育てた。 彼も次なる住処を探し家を出る支度を始める。 「恋人の為に戦う、か。どの世界にも1人はそんな奴がいるものだ」 誰にともなく、ラシードは1人切なげに微笑んだ。 ライアン邸。 音もなく、殺意は彼らに放たれる。 黒服に囲まれるライアンの表情が恐怖に染まり上がる。 「おい、どうした!」 また1人、ボディガードが倒れる。彼らの首に刺さっている針は恐慌状態の彼の目に映っていなかった。 その時、背筋に汗が伝った。 ポチャン……。 足元を見た時、彼の顔色は青より蒼くなっていた。 背中に手を回すと、その妙な粘り気に気付く。鉄の臭い。 コツ、コツ、コツ、と言う死神の足音。 目の色は完全な恐怖。縋る藁など一本もない。 死神は赤毛の踊り子の姿をしていた。 「お、お前は」 震える両手。後退りする肉塊。ボテッとした大きなお腹。蒼い顔。足もとは自らが作り出した赤い池。 「ま、待ってくれ」 差し出す待ったの手。 この時の自分の顔は後から知った。 武器になんか頼らなかった。 刹那でアタシはその男の臓腑を握りつぶし、心臓を刳り貫いてやった。 この上なく見開かれた恐怖と苦痛に歪んだ双眸に映る自分の顔に絶望した。 アタシは、醜悪に、笑っていた。 手中で未だドクドクと血を吐く心臓をブチャリと握りつぶす。血肉が顔に、胸に、肢に絡みつく。 何の感慨も持てなかった。 足元、血の池でびくびく痙攣する死体。その背には彼を殺した刃が突き立てられていた。 「仇は取った」 プルプル震える腕は蒼褪めていた。 「でも、虚しさは消えなかった」 ティアがゆっくりと大きく感嘆の息を吐く。 「そんな事が」 ローズは静かに首を縦に振る。 「あんた達見てると、何か昔のアタシと被るんだよね」 これまで足もとばかり見ていた彼女は力なく笑い、ティアを注視した。 「だからさ、大事なものはしっかり守らないと。いつ無くなってしまうか分かんないのよ」 不安そうな調子。 前方から淡い光が射す。2人が手を振っていた。 「あんたもしっかりやんなよ」 ローズはライオネル達に向けて大きく手を振る。 「ちょっと話が長引いたね。ま、そう考え過ぎる事はないよ」 ポンと彼女の肩を叩き、ローズは彼らの元へ走って行った。 女同士の話は終わったのか? などとやり取りをする間に4人は霧深い森の中へ出る。 そこへ丁度、見知った顔の男がやって来た。 「早かったね、ナシェル君」 微笑を浮かべるグレン。 ライオネルはそれにどこか影を落とすものを見出す。 が、瞬きの次にはそんなもの消え失せていた。勘違いだったのだろう。 「じゃぁ、我々は一足先に帰るとしよう」 「ありがとうございました」 ナシェルが深々と頭を下げるのにライオネルははにかんだ。 「なに、礼には及ばんさ。じゃぁ、またな」 そう言って、グレンに一礼するとライオネルは来た道を戻って行った。 バイバイ、とローズも彼の後に続き去ってゆく。 「さて、それでは私の家に向かおう」 ナシェルとティアはこくりと頷いた。 村の中は妙に静まり返っていた。 ハイドミストに覆われる陰気な村ではあるが、ここまで音がないのはおかしい。 ナシェルは聞き耳立てた。 やがて辿り着く我が家。 「ここが私の家だ」 やっぱり、とナシェルは確信する。 家の扉を開ける前にグレンは振り返った。 「ティア君、悪いが君は席を外してくれないか」 えー、とか、どうしてよ、とか不平不満を口にするティア。 「ティア、頼む」 ナシェルの言葉に彼女は渋い顔をした。 小さな溜息。 「分かったわよ」 向こうに酒屋さんがある。私に寄越されたと言えば快く受け入れてくれるはずだ。 ティアは不満そうに、しかし抵抗する訳もなく、言われた通りに酒屋へ向かった。 樽がいくつも並んでいる家。どれも空樽だ。 しかし、それは未だに匂いを放つ。 ここがその酒屋だろう。 ごめんくださ〜い、と彼女が入るとそこには豹獣人の姿。 なんだか驚いている。 「え、えっと、グレンさんにここで待ってろって言われて」 しどろもどろしながら言うとその獣人はにこりと微笑んだ。 「おーおー、話は聞いてんぞ! まぁ、上がんな」 酒屋、と言うか杜氏。酒の匂いが漂ってくる。瓢箪が商品棚に所狭しと並んでいる。 男はティアに手まねきし、店から家へ誘う。 そこでティアは驚いた。 「あれ、グリムおじさん……その人、だぁれ?」 まだ温もり残る暖炉の炭を掻くグレン。そわそわするナシェル。 「あの、グレンさん」 「ナシェル、もう気付いているんだろう」 暖炉の両端に炭を掻き分けグレンは振り向いた。 「やっぱり、そうだったんですか……父さん」 「父と、呼んでくれるのか……ナシェル」 グレンは暖炉の方へ目をやり火掻き棒で煉瓦を叩く。 「父さん、ビビはどこに?」 せわしなく彼の視線は辺りを逡巡した。 「ビビなら昨日からグリムの所に預けてある」 暖炉に現れる通路。ナシェルの疑問はその瞬間にはじけ飛んだ。 「何で、人間」 「あたし人間じゃないよ」 驚いていたティアの表情は最上級のそれに昇華した。 「あたしは、んーっとね、はーふびーすと!」 無邪気な笑顔で言う少女。金色の短いツインテールがひょこひょこ揺れる。 「おー、ビビは相変わらず元気だなぁ!」 蕩けるような眼差しを少女に向ける豹男。グリムは大の大人を引き裂ける程の爪を持つ大きな手でポムとビビの頭を撫でた。 ロリコン? 所で、私はこの子に前に会った事がある、ような気がする。 ティアは少女を見つめ奇妙なデジャヴュを覚えた。 しかし、そのデジャヴュはジャメヴュである確信があった。 既視と未視、二つの感覚が 「あれ、お姉ちゃん、おにいちゃんの臭いがする」 気づいた時には少女は彼女に抱きついていた。 「いい臭い……おにいちゃん」 なに、何!? お兄ちゃんって何!? 私、確かに胸は……うん、無いけど……下には何も付いてないわよ! いや、付いてないって、ツルッツルじゃないけど、でも、バベルの塔は無ナニ言わせるのよ! 極度の恐慌状態から彼女は声にも出さないものに突っ込んだ。 「あ、確かに……ナシェルの臭いがするな」 グリムがポツンと呟く。 記憶が掘り起こされる。 落ちる記憶。金色の記憶。 黒い甲冑に身を包む男の言動。 ――言ってやれよ……自分はハーフ・ビーストだってな―― 不意に響く叫び声。それは外から聞こえる。 ビビにここを動くなと言い聞かせ、出る。 目を裂くような光。太陽がさんさんと輝いていた。 「なんだ、これは……ハイドミストが晴れるのはまだ一月以上先じゃ」 驚愕するグリム。 再び叫び声。 「何だアレは!」 グリムが指差す方向。そこには木々以外に何もなかった。 「あそこだ! あの梢と梢の隙間、あの、黒い奴!」 個人差はあるが獣人の視力は人の数十倍。 ティアにはどこで何が起きているのかさっぱりだった。 が、次の瞬間、樹木が薙ぎ払われた時、彼女にも明確にそれが見えた。 「ジーク……フリード?」 急接近し、ティアをスルーした黒い影。 ボロボロで、いつも身に着けていた黒のアーメットヘルムは被っていなかった。 「今の……は」 グリムが鼻をヒクつかせ、その言葉を漏らした。 暖炉の下にはそれと同じような煉瓦で固められた通路が出来ていた。 「私はずっと、お前が私を恨んでいると思っていた」 コンコンと足音が響く。光はグレンの持つトーチくらいだ。 「獣人でもなく人間でもないハーフ・ビースト。お前には本当に辛い運命を背負わせてしまったな」 嘲笑めいた風にグレンはそう吐きだす。 「バーバラの事は本当に残念だった。が、彼女のお陰で獣人は救われただろう」 やがて広い空間が見えてきた。 「お前には知っておいて欲しいんだ」 グレンはトーチで篝火を灯す。 「お前が、望んまれて生まれてきた子だと言う事を」 二つの篝火が灯った瞬間、壁に整列する蝋燭が一斉に燃え上がった。 「ハーフ・ビーストだろうが何だろうがお前は私達の子供だ。それは変わらない」 グレンがナシェルを振り向く。懺悔にも似た感情が浮き彫りにされていた。 「父さん」 浄罪にも似た意味を孕む言の葉。 「いろいろ辛い事もあっただろうが、もう大丈夫だ」 篝火の間を進む。 「ライオネル、彼は良い王だ。彼なら新しい時代を創ってくれる」 グレンは目を細めた。 「お前は、その時代で幸せになれ」 ナシェルも微笑む。その表情は流石に親子を思わせるものだった。 「分かってるよ、父さん」 父の後を追従するナシェル。 「会えて良かった。本当にそう思ってるよ」 「そうか」 「ちょっとあんた! どういう事!? 何であんたこんな所に」 村の外れ。若木ばかりのそこで男は立ち止った。 黒い鎧。それはあの時のまま、腹を覆う鋼は無く、ジュクジュクに膿んでいた。 「黙れ、女。それ以上喋るな。私がどうやって霧を晴らしたかがそんなに重要か」 ティアは考えるまでもなく言葉を紡いだ。 「いや、そうでもないわね。あんたを仕留める事の方が先決だわ」 弓矢を構える。 彼はふっと笑った。 「そうか、それがお前の優先順位。されど、それに付き合う道理は無し」 男は大剣を地に突き刺し咆哮を上げた。 それはまさしく狼のそれだった。 ビキビキと大地がひび割れる。 そして崩落。 「待てっ!」 それを追ってティアも穴に飛び込んだ。 地鳴り。 天井が砕け、落ちてくる煉瓦と土砂と若木と黒騎士。 黒騎士? 「ナシェル」 怒気を孕む声。 聞き覚えがあるそれ。 銀色の長い髪。赤黒い瞳。突き出した鼻とその下にある牙をもった大きな口。 赤い頭巾をかぶったお見舞い少女を喰らう獣。 「オーブを、ビーストオーブ渡せ」 ナシェルはハッとした。 「ジークフリード!? 生きていたのか」 獣の素顔の中から漂う不吉な香り。 「ナシェル!」 ジークフリードに続いて降って来る声と姿。 男を踏ん付ける気持ちで着地。すぐに黒い鎧の銀狼から距離を取り、ナシェルの隣りに身を置くティア。 「やっぱり、こいつジークフリードなのね」 獣の顔を認めてティアは呟いた。 オーブ、オーブとうわ言のように呟くジークフリード。 「こいつ、正気ではないな」 グレンは一歩下がった。 がぁ! と叫びジークフリードは大剣を振る。 ビーストオーブを封印するために誂えられた台座は既に瓦礫の下敷き。その瓦礫を巻き上げ、さらに場をかき乱すジークフリード。光射す天井は閉ざされた。 ナシェル達は身構える。 「ここで、倒すしかない」 それにティアも同調した。 「そうね」 弓に矢を番える。 ナシェルは背後の父に目をやった。 「父さんは逃げて!」 「ナシェル! 私も戦う!」 グレンは腰に手を……しかし、剣を家に置いてきてしまった事に気付く。申し訳なさそうにしゅんとする彼をナシェルは柔らかい視線で見やる。 「いいんだ。この戦いは僕が終わらせる。そうでないとダメなんだ!」 視線はすでにジークフリードを向いていた。 「そうか……わかった」 グレンが3歩下がる。 「絶対に生きて帰ってこい」 そう言い残してグレンは走り去って行った。 「行くぞ! ジークフリード!」 駆け出し、ナシェルはジークフリードの初撃をその拳でいなす。 残った片手で剥き出しの腹を掴み、ナシェルは自らの魔力を流し込んだ。魔法の効果を経ない魔力は異物、すなわち毒。ジークフリードの体内で拒否反応が起きる。 叫び散らす所へティアは矢を射た。 鎧の無い部分を的確に狙い、刺さる。鮮血が吹き出した。 ジークフリードの顔が歪む。 そして変貌。 獣は人の顔を呈した。 「あいつ……もしかして」 自分に言うようにティアが口ずさむ。 「見るな……見るなァァッ!!」 片手でブンブンと大剣を振りまわし、ジークフリードは叫び散らした。もう一方でその人間の顔を覆い隠す。 獣じみた雄叫びをあげた。 大剣が赤熱する。ジークフリードはその大剣を地に埋めた。 すると、深紅の魔法陣が辺りに描き出される。 地鳴りと共に噴き出す暗黒の炎。 ナシェルを焼く業火。熱にティアは喘いだ。 大剣が燃え尽き、火柱が鎮まる。 息も絶え絶えのジークフリード。 様子はそれと然程変わらないナシェル。 熱い煉瓦の上に座り込むティア。 「ジーク、フリード」 ナシェルの視線にびくつく銀髪の男。 その手は相変わらず顔を覆っている。 「お前」 「あぁ、私はハーフ・ビーストだ」 言及を恐れた。彼は自らその正体を明かした。 顔が再び獣になる。 「だったら何だ。それを疎まれ、憎まれ、棄てられ、殺され、そうまでして何が中立か、何が共存か。糞喰らえだ。私はお前のような甘ちゃんではないのだ! 人間と獣人が恋に落ちる? そんな甘いものではない! 私の母は誇り高い人だった! それをあの男は! あの男は! あの男は!!」 錯乱。赤い目を縁取る白目が血走る。 ナシェルの胸ぐらを掴み上げ、ジークフリードはそれを壁に向かって投げ飛ばした。 ナシェルがガンッと壁にめり込む。 「ナシェル!」 「ギャッザァァァアアアアア!!」 悲鳴みたいな叫び声。ティアに向かってくる夜叉のようなジークフリード。 その鋭い爪が背中に刺さる。 微笑む金色の彼。 「なしぇ……ル」 腹を貫く爪。赤い飛沫が彼女を襲う。 「ごめん、ティア」 ティアは「イヤ……イヤ」と口にし震え上がる。 「僕は、君に……嘘、を、ついてた」 暗澹とした声。彼は腹を貫く腕を掴んだ。 「僕は……ハーフ・ビーストだ」 「止めて、喋らないで、今治療するから、だから、早く、止めてよ」 知ってた。さっき確信した。けど、その前から気付いてた。 動悸がした。息をするのが辛かった。彼女は喋る事すらままならなかった。 ナシェルは最後の力をジークフリードに流し込む。 背後の獣人が血反吐を吐き倒れた。ずるりと抜ける腕。腹から背中からドクドクと血が零れる。 「ナシェル……貴様も地獄に堕ちろ」 ゴトリ、と音を立て懐のビーストオーブが転がり落ちた。 「ビーストオーブ!!」 落ちた宝玉にジークフリードは血相を変える。掴んだ瞬間、彼は崩壊した。 狂気を孕む笑い声が木霊した。 地鳴り。 ナシェルはその場に倒れた。 「ごめんよ、ティア……僕は、今まで……君を、っ、騙していた」 ティアは回復魔法を延々繰り返す。 「ティア、逃げて……さっきの地鳴り……ここが、崩れる」 ガラガラと崩壊の音が響き渡る。 ナシェルの意識が遠のく。どこか、近いような遠いようなところから父の声が響く。 ティアの逃げ道を確保しなきゃ。 転がるビーストオーブに手を伸ばす。 「あんたを置いて行ける訳ないでしょ! 引きずってでもあんたを連れてくんだから!」 今なら、ティア1人ならまだ助かる。 「僕の事はいいから、早く、逃げて」 約束は、守れそうにない。 「ダメよ! 一緒に行くんだから! 絶対死なせないんだから!!」 浮かべた涙が零れ落ちる。霞む視界にその光ははっきり映った。 「ティ、あ……泣いてるの、か?」 「うっさいわね! 誰のせいだと思ってんのよ!! あんた、罰金10倍だかんね!」 鼻からも涙がこぼれている。 地鳴り。煉瓦が崩れ土砂が降り注ぐ。 「ごめんよ、ティア」 ナシェルはやさしく彼女の頬を撫で、涙を拭った。 それでも次から次へと涙は零れてくる。 「バカ……あんたってホント、どうしようもないバカよ!」 その顔はジークフリードの腹よりもずっとグジュグジュだった。 「そんな事、っ、謝らないでよ……ッあんたが人間でも半獣人でも、そんな事、どうでもいいのよ!」 地鳴りに負けない程の、土砂の降り注ぐ音に劣らぬ程の声で彼女は張り叫ぶ。 「私は、ナシェルならいいんだから! 人間でも、獣人でも……それがナシェルなら」 彼女は金の毛皮を抱く。 「ナシェルじゃなきゃ、ダメなのよ……だから、お願い、助かって……一緒に、生きて」 吹けば飛んでしまうような声。しかし、ナシェルの耳に、心に響く為にボリュームなんか関係なかった。 ナシェルは彼女をひしと抱きしめた。 「ありがとう、ティア」 ビーストオーブが妖しく輝く。 彼女はハッとした。 「ナシェル!? 何を」 背筋が凍りついた。 ナシェルの顔が人のものになる。しかし、体は相変わらず獣。ティアは彼の考えを悟り暴れる。だが、手負いの獣の力にすら敵わなかった。 「ビーストオーブよ! 発動せよ!!」 淡紅色の光。 「僕の命を懸けて願う!!」 やめてと連呼するティアを余所に彼は願いを口にした。 「ティアを地上に!」 「ダメ! ナシェル!!」 赤、黄、緑、橙、無秩序に光が放たれる。 「ありがとう」 深い闇の中 「さよなら……ティア」 ナシェルは囁いた。 「ナシェルーーーーーーーーーーーー!!!」 余韻は耳に残り、消えなかった。 新緑芽吹く大地。 光に包まれ、彼は目を覚ました。 |